2010年02月17日

「二つの顔」

文久二年の今日、二月十七日。
人口約6200人(当時)の小さな町、
島根県津和野町に明治の文豪が誕生した。
森林太郎、後の 森鴎外 である。

藩校では神童と称えられたほど実に優秀な子であり、
子供には難解な本も、一度音読をしただけで言葉の意味を理解したという。

しかし、道ばたで花を摘んでながめているようなところや、
「犬がこわい」と屋敷町を歩けず、近所の子どもたちに
「女々しい」と苛められてしまうような弱々しい面も持ち合わせていた。
神童といわれた顔と、女々しいといわれた顔。
「二つの顔」が、後に陸軍軍医として果敢に政治にも関わっていく鴎外と、
あまたの作品を残していった文学者としての鴎外になったのだろうか。

明治17年、軍医としてドイツへ渡った鴎外は、
再び「二つの顔」に揺れ動く。
個人主義的な西洋の考えと、個人のことより家や国家を重んじる日本的な考え。
武士の家に生まれ、道徳教育がしっかりと根付いている鴎外とは反対に、
文学者としての鴎外は、学問や芸術で表現の自由を求めていた。
個性を生かせる西洋の考えに少しずつ心を傾け、
祖国日本に対し違和感を感じることもあったという。

ところが明治四十五年。
そんな鴎外を一気に傾倒させるような出来事が起こった。
それは、
明治天皇崩御につづき、天皇を崇拝していた陸軍大将 乃木希典 の殉死であった。

鴎外は甚く衝撃をうけ、
「乃木大将の殉死は、日本人の精神の原形である」として、
この日を境に、日本を形成してきた精神を武士社会に探りはじめる。
乃木大将殉死の日から、五日間で書き終えた『興津弥五右衛門の遺書』をはじめに、
森鴎外の歴史小説は、正にこの時からはじまっていく。
鴎外は晩年、自ら「乃木流」と称し、
家にいる時も金巾のシャツと軍服のズボンをつけて過ごし、
軍刀を側において寝ていたほど乃木大将を尊敬しつづけていた。

大正十一年七月九日。
袴を身に着け、痛みに我が身が乱れぬよう腰を支え横たわる鴎外。
その最期は、死の床にまで凛として旅立つのだという、
まさに武士の姿であったように思う。

時は平成二十二年。
バンクーバーオリンピックに日の丸を背負って出場し、
腰パンで一躍有名になった彼は、
「自分にとってオリンピックは特別なものじゃない」と嘯く。

その反面、
38歳で自身五回目の出場というスケート選手。
「アラフォー世代に、これからの日本をもっと動かして欲しい!」
「だから私が頑張るのだ!」
と、彼女の輝くような美しい笑顔は涙をさそった。
もしかすると、
これこそ今の日本人にある「二つの顔」なのかもしれない。

彼女の笑顔に、日本の美しさと凛とした強さのようなものを感じ、
ふと鴎外の誕生日を想った。


posted by 悠(ゆう) at 22:13| Comment(10) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

「才能」

横浜は桜木町。

同級生のお店で久しぶりにウィスキーを飲みながら語りあった。
ママである彼女はカウンターの中で、
終始、空になるグラスを気にしながら、
毒舌をふるう客のジョークも高らかに笑い飛ばし、優しく酒を注ぐ。

私の隣には3つ上の先輩。
正確には兄の幼稚園時代からの幼馴染であり、
高校時代は同じ野球部で甲子園野球を目指した(兄の)大親友。
早稲○大学を卒業する頃にスカウトされ、
以来、長い芸歴を積み重ね、現在は実力派の俳優さんでもある。

二人を見ていて、
それぞれの「才能」を改めて感じた。

【同級生ママ】
さほど興味もない話しであれ、相手が心地よいように膨らませ、
笑えないジョークを極上の笑いに変えてしまう才能。
相手に気持ちよく美味しいお酒を飲ませる才能。

【3つ上の先輩】
丸坊主&ジャージでスクランブル交差点を歩いていても、
群衆に紛れず「キラリ」と光りスカウトの目にとまってしまう才能。
泥酔していても「いい男」「俳優」のオーラぴかぴか(新しい)を崩さず、
誰にでも愛されるキャラでいられる才能。

自分を振り返ると・・・。

失礼な毒舌トークには真っ向から立ち向かい手(グー)(笑)
女らしいお酌など凡そ格好もつかず。
地味な装いでスクランブル交差点の群衆に消え、
泥酔したなら、恐らくそのまま寝るだろう^^;

なるべくしての今があり、二人の「才能」を改めて尊敬した夜。

よ〜し、今年は勝負!

何を?

知らん目

とにかく頑張るぞ〜!!わーい(嬉しい顔)本

「才能」よ私の元にも降りてきて…。お願いもうやだ〜(悲しい顔)




posted by 悠(ゆう) at 00:00| Comment(21) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月21日

「一人」そして「三人」

「一人」そして「三人」



「そうだ、京都へお墓参りに行こう!」

二十歳の記念に何か大人びたことをしたくなった私は、初めての一人旅を計画した。
それは、十代半ばから後半ごろだっただろうか、
急激に日本の近代史に魅せられたきっかけとなった幕末物の本が、
強く影響していたんだと思う。

そうは言っても、順序良く歴史の大河が頭の中を流れているわけでもなく、

「あ!私この人好き目

「○○さんと○○さん、この時代に既に繋がってたんだぁ…。」

とか、

「うわ!○×△の家のすぐ近くでこんな人もその後生まれてる!家

やら、

「あら〜。こんな逸話があったのねぴかぴか(新しい)

などと言いながら、
極めてピンポイントで、
私なりの小さな発見がポチポチと刻まれていた程度だったように思う。

現在放送中の「竜馬伝」を観ながら、改めてそのポチポチを思う。
熱烈な竜馬ファンの方には、小さな声でしか言えないけれど、
「維新の真の立役者説」もある(らしい)中岡慎太郎に、
どうしても天邪鬼な私は心が動いてしまう^^;

何を隠そう今も後ろを振り向くと、壁に貼り付いて彼(写真)は私を睨んでいるのだ。
それだけに今回の「福山竜馬」は勿論、「上川慎太郎」がとても楽しみで仕方がない。

さてさて一人旅。
そんな訳で選んだ場所は京都の霊山護国神社。
今でこそ造語で「歴女」と、まるで流行の一つのような見方もあるが、
当時はただの変わり者でしかなかったのではないだろうか^^;

東山に位置するこの神社には、維新を目前に倒れた志士をはじめ、
日清、日露、大東亜で戦死された方々をご祭神とした約73000柱が祀られている。
この国をつくり、護り、礎となった方々のお墓が山頂まで続いており、
とてもとても私の軟弱な脚力では、上まで登りたくても登れない。
それでもなんとか中腹まで登っていくと、京都の街が一望できる。

霊山神社からの京都.jpg

そこにお墓が仲良く二つ。

「坂本竜馬」と「中岡慎太郎」である。

二人に対し熱いメッセージが書かれた石板がずらりと並んでいる。
たくさんの人たちの嘆きや願いを受けとめながら、二人は何を話しているのだろう。

今思えば不謹慎きわまりないが、私は傍の自動販売機で缶コーヒー喫茶店を三本買い、
一本は慎太郎に。
一本は竜馬に。
そして一本は私…と。
三人(?)で缶コーヒーを飲んだわーい(嬉しい顔)

そして私も聞いてみた。

「お二人の愛した日本は、思い通りの国になっていますか?」

国の行く末を案じ、この地に眠る方々は大寒を迎えた京都の街を見下ろし、
今、何を考えておられるのだろうか。
20数年経った今でも、あの時と同じように聞いてみたい。

そしていつかまた、お墓参りに行ってみよう。
その時は缶コーヒーではなく
当時はまだ「臭っ!」と言って飲めなかった芋焼酎を是非「三人」で飲んで頂きたいわーい(嬉しい顔)





posted by 悠(ゆう) at 00:28| Comment(4) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月06日

「頑固」「傲慢」「我が儘」

「頑固」「傲慢」「我が儘」

元旦の朝。
いつも思い出す風景がある。

和室の床の間の前、和服姿の父がどっかと座っていた。
子供たちは私を最後尾に兄から順に並び、

「あけまして、おめでとうございます」

この日だけは丁寧に頭を下げ、新年の挨拶をする。
すると父は着物の襟元にすっと手を入れ、

「はい。おめでとう」

いつにも増して威張って言いながら、
子供たちの名前を右下がりの文字で書いたお年玉袋を手渡してくれた。

その後、
御節や雑煮を頂きながら子供たちも数滴ほどのお屠蘇にあやかる。
普段は近寄るのも怖いほど威圧感があり、((( ̄へ ̄) |(・・ )))。。。サササ
冗談を言って笑い合う事など皆無に等しかったが、
正月の朝の食卓だけは一年で最も和やかで、
一年で最も暖かい朝だったように思う。

「頑固」「傲慢」「我が儘」が三拍子揃った、所謂「典型的な昭和の父」を
今思えば、日本の正月の原風景と重なりあって懐かしく感じられる。

それとは別に、
父の機嫌の良し悪しによって例えば、お風呂の順番、言葉遣い、
ちょっとした油断からの生意気な態度…などなど、
ひどい時は女の私にも容赦なく鉄拳が飛んできた。

そんな時はただただ機嫌が回復するのを待つしかない。
故に、当然理不尽な思いもあった。(--)ム!
子供達はそれぞれに悔しい思いを小さな拳に握りしめ、
ひたすらあの時代に耐えることを学んでいたのかもしれない。

そんな事もいつしか年齢と共に受けいれ、
不思議なことに今では、
「男らしさ」などという話をする度、父の背中を思い出し更に、
「頑固」「我が儘」などと聞くと、
言葉では表現しきれないけれど、尊敬や憧れのようなものすら感じてしまう。

頑固で、傲慢で、我が儘で、
されど純粋に挑み、一つの何かを護り抜く。
そんな男の姿は、いつの時代にも存在し続けていて欲しい。
いや、存在し続けているのだと思う。至極愛しい。

「どうかそのまま頑固でいて」
「どうかそのまま我が儘でいて」そして、
「どうか挑んで下さい」それを
「どうか護って下さい」と……。

私はいったい、誰に叫んでいるのだろうか^^;ハハハ


posted by 悠(ゆう) at 00:29| Comment(16) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月31日

2009年大晦日

大晦日。

今年一年を振り返り、
正直・・・辛い事も多かったかもなぁ…もうやだ〜(悲しい顔)

けれども、
それもこれも全部ひっくるめて一年間の御礼を言おう!

そんな訳で、
今年最後の太陽の光を見送ってきましたわーい(嬉しい顔)

雲のない日は写真右手に、
それはそれは見事な富士山が臨めるのですが…。

20091231_0123.JPG


今日は少し雲がかかってわかりにくいです(・・;
(いや、全然わからない?^^;)

元気のない私にも、
太陽はいつも変わらない光を届けてくれて晴れ

20091231_0126.JPG

今日も静かに、違う国へ出かけて行きました晴れ

一年間ありがとう手(パー)晴れ

そしてぴかぴか(新しい)
このブログに遊びに来てくださった皆さま、
暖かいコメントを残してくださる皆さま、
本当に一年間ありがとうございました。

そしてまた来年も、
お時間が許されます限り、
この淋しがりやを勇気付けに来てやって下さいませ。
どうかどうかよろしくお願い申し上げますm(__)m

みなさまわーい(嬉しい顔)
ぴかぴか(新しい)どうぞ良いお年をお迎え下さいぴかぴか(新しい)

posted by 悠(ゆう) at 22:42| Comment(19) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月20日

謝罪〜罪深き少女のお尻〜

小学校へ上がるまでの約6年間。
山口は小郡の矢足(やあし)という、街から少し離れた山裾に住んでいた。
当時は勿論知る由もなかったが、
小さな平屋建ての我が家の真裏(山側)に
種田山頭火の「其中庵」があった。

今現在は、
平成4年に復元された建物があり石碑なども数を増しているが、
微かな記憶を辿れば、子供の頃、建物は既になかったように思う。
石畳、南天の木、読めない字の小さな石碑、そこに舞う桜の花びら…
そんな僅かなものが映像として蘇る。

だが、何と言っても幼い私にとっての「そこ」は、
どんぐりや椎の実を集める場所であり、
ご近所の庭の木にこんもりと実った「ぐみ」をもぎ取り、
満面の笑みで頂く庭であり、(野生児^^;)
小高い畑にずらりと育っている人参を一本引き抜き、
泥を洗いながら、これまたにっこりカリカリと頂く場所だった。(うさぎか^^;)

今思えば、
罪の意識などまるでなく、一度や二度の犯行ではないこの小さな泥棒(−−;
ご近所の皆さまは恐らく、
見て見ぬふりをして下さっていたに違いない…。がく〜(落胆した顔)
時を経て、今更ではございますが遠い空より謝罪いたします。ゴメンナサイ。
どうかどうか罪深きチビをお許し下さいませ。もうやだ〜(悲しい顔)

復元されて間もなく、帰省のついでに「其中庵」を訪れた事がある。
山頭火がこの庵で暮らしていた日々を書き残したものを読んだとき、

「夕方、2キロ近く離れた小郡駅前での物売りの声が、
   山を駆け登って庵にまで聞こえくる…」

などという一節がとても気になり、耳を澄ましてみたかったから。
(聞こえなかったが、聞こえるような気がした目耳

そしてもうひとつ。
当時、調達(?)した品々を庵の庭で頂く際に、
いつもちょこんと腰をかけていたはずの石(石碑)があったはず。
その石を見てみたかった。

それがなんと。。。
小さなお尻(当時は^^;)の下にはこんな句が刻まれていた。

山頭火石碑.jpg

「はるかぜの はちのこひとつ」

この石碑は、昭和25年に荻原井泉水が建立した貴重な句碑だったがく〜(落胆した顔)
自らの門下でもあった山頭火のため、
きっと様々な思いがこめられていたのだろう。

ガーーーン!
なんと、恐るべき少女がく〜(落胆した顔)
なんと、罪深きお尻モバQ

荻原先生、種田先生、ご近所の皆さま・・・ホントニごめんなさい。もうやだ〜(悲しい顔)


posted by 悠(ゆう) at 01:19| Comment(12) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月15日

てんこ盛り

12日(土)
午前中、大切な方を品川にお迎えにあがり車(セダン)
杉並の高円寺で【犯罪被害者支援のつどい】という、
杉並区が主催する講演会に参加させて頂いた。
それは、BIGBELLが癒しのミニコンサートに出演したから…。
(この件は片手間ではなく、改めて日記に書きたいと感じています。
 貴重な講演に自分も同席出来た事、とても感謝しています。)

その後、
兄の仕事のお付き合いでディナークルージング。
こんなにロマンティックな夜景に・・・
なぜか兄(^^;
レインボーブリッジが綺麗でした。

20091212_0068.JPG

夜10時から品川に残していた友達を車(セダン)再ピックアップ。
地元で兄と三人、カラオケで歌いまくり♪
夜中の2時過ぎ、お友達をまずは釈放(?)するため
お店でタクシーを呼んでもらった。

運転手さんに予めお金を渡して「品川へ」と格好良く見送ったはずの兄は、
そのお金をドライバーにネコババ(死語?)されてしまった^^;(本日判明)
世知辛い世の中だ…もうやだ〜(悲しい顔)マッタク。

翌13日(日)
二日酔いのまま車(セダン)北海道へ帰る兄を羽田空港飛行機に見送り一旦帰宅。
髪をブローをする暇もなくすぐに赤坂ライブへGo!
身体はヨレヨレで目は真っ赤ふらふら
それでも、ひとつひとつの出来事がキラキラと輝いていてぴかぴか(新しい)
幸せが「てんこ盛り」の二日間だったわーい(嬉しい顔)

しかし家に着いた頃には既に、チビ彼は夢のなか。
絶頂感の後に必ずやってくるチョッピリ罪悪感(。-人-。) ゴメーン

かわいい寝顔にKissをして、

「ごめん。ママ遊びすぎだね…」
「しばらくお酒は飲まないよ…アア…キモチワル」
「でもライブはやめられないなぁ…目
「その分仕事頑張るから…手(グー)

寝顔にブツブツ独り言。
事実上の父親役ではあるものの、この行動はかなりお父さんぽいなぁ^^;と自覚。

感慨、感動、事件、偶然、幸せ。
あまりに感情の起伏が盛り沢山で、
どこに焦点をあてて書いたら良いのか定まらないままでいる。

翌朝、
お茶をすすりながら彼等の名曲「ほのか」を聞くような、
相変わらず渋いチビ彼に相談してみた。
(最近はひかりのかけらが大のお気に入り)

ママ「いろいろあって何書こうか迷っちゃったよ」
チビ「迷ってるって書けばいいじゃん」
ママ「(゚o゚;) ハッそうだね」
そんな訳で、こうしてだらだらだら……と。

たまにはこんなのもいっか(・・*)ゞ


posted by 悠(ゆう) at 23:37| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月05日

☆☆☆ Happy Birthday ☆☆☆


冷たい雨で・・・雨

自室に篭って・・・家

ただひたすら仕事・・・本

仕事・・・ペン仕事・・・ペン仕事・・・ペン

考え事?目


あ!!ひらめき


ふとわーい(嬉しい顔)ぴかぴか(新しい)


やっぱり何もせずにはいられなかったプレゼント


そんな今日12月5日に心をこめてバースデー黒ハート


誕生日~1.JPG



バースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデーバースデー

お誕生日おめでとう!おめでとう!おめでとう!

プレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼントプレゼント





「訳がわからん(・・?」という方、スミマセン。
(解説)
大好きなアーティストのお誕生日なのぅ^^;エヘヘ
posted by 悠(ゆう) at 18:08| Comment(6) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月01日

フィットタイム整体院

我が家から多摩川を隔てた住宅街の一角に、
「フィットタイム」という整体院がある。

いや実は、とても淋しいけれど…。
既に「あった」と過去形にしなくてはいけない。
なぜなら昨日(11月30日)そこは閉院したo(;△;)oエーン

通いだしてまだ2ヶ月余りにすぎないが、
おそらく母は、一日も欠かさず通っただろう。
整体院と言っても、私の今までの認識と大きく違っていたのは、
「フィットケア」という医療装置から
特殊な電気エネルギーが通電されているマットがあり、
マットは並べられた椅子いすの上に、全部で10〜12はあったと思う。
そこに毎日20分座りに行く。これがメインだという事。
(1回300円、1ヶ月だと4200円これは安い目!)

入れ替わり立ち替わり、椅子は常に満員に近く、
長い間通っている人たちの楽しそうな会話がいつも聞こえてくる。
肩こりや頭痛持ちが治った話しや、喘息、糖尿、癌……などなど、
重い持病を克服した晴れやかな自慢話が口々に聞こえてくる。

更に、イケメンで博学多識の店長「大ちゃん」
甲高い声で高らかに笑い、元気良く優しく声をかけてくれる。
そして彼をほど良く加勢するマッサージ師の「ともちゃん」
おっとりと実にスローリーな喋り方の彼女が醸し出す雰囲気は、
どんな「お香」より「アロマオイル」より癒されるわーい(嬉しい顔)いい気分(温泉)

雨が降る二日前あたりから、後頭部に痛みを感じてしまい、
「プロよりあたる天気予報」と言われてきた私にはもちろん朗報!
(天気予報を当てるより出来れば頭痛を治したい^^;)
そして何より、
かの笹川☆一氏が60代の頃患った「食道ガン」を、
この民間療法で克服したと言われる逸話(?)にはえらく感動し、
これこそ母に朗報!!
そんな訳で足しげく通っていた。

ところが、
不況の煽りか、人手不足か、はたまた経営方針か…。
突然の本社からの閉鎖通達により、二人の転勤が余儀なくされた。
身体に良いことを毎日わかりやすく説明し、
患者さんとの信頼関係を築いてきた二人にとって、
すべての決断がどれほど断腸の思いだったかは容易に想像がついた。

最終日の昨日。
テーブルに置ききれないほどのお菓子とお茶喫茶店を並べて、
【電気椅子(?)】に座りながらの何気ないお別れ会。

「元気でね。頑張ってね。」
孫を送り出すような目のおばあちゃん。

「絶対帰ってきてよ!」
そんな気持ちがたくさん詰まった
「またね!」
を何度も笑って言う親子連れ。

「お世話になりました。」
深々と頭を下げるおじいちゃま。

みんなにとって、ここがどれほど生活に重要な一部であり、
大切なオアシスだったかという事を改めて感じる。
そこに流れる空気が、何よりの特効薬だったのかもしれない。

私自身もたかだか2ヶ月とは思えないほどの愛着がある。
「どうしてくれるのよ!ちっ(怒った顔)
と1割冗談9割本気(^^;)で詰め寄ったりもしたが(ゴメンネ)、
改めて……。

「絶対また戻って来て欲しい!」

そんな気持ちをどうしても忘れないためにも、
今日はここに記しておきたかった。

みんなに愛された「フィットタイム整体院」に
(-∧-)合掌・・・


posted by 悠(ゆう) at 11:46| Comment(8) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

「東京午前三時」

昭和33年。
29歳の青年航海士はその日、
45日間の航路を無事に終え徳山港に降りたった。
久しぶりに踏んだ陸地は、瀬戸内海に位置する山口の港。
もっとも彼の過去には、地球をぐるりと一周した武勇伝もある。
その時は、七ヶ月間もの長い船上勤務が続いた。
それを思えば、たった45日の海上生活など難なく終えた事だろう。

青年が、所謂「丘」へ上がったその夜。
同期三人で久しぶりに夜の繁華街へと繰り出す事にした。
ダンスホールが当時の大流行であり、
真っ白い制服を着たまま、彼等も一目散にそこへ向かった。

煙草の煙。
ブランデーの匂い。
流行の歌が聞こえる。
瞬時に彼等を、なんとも甘やかな夜へと誘っていく。

「東京午前三時」
フランク永井の歌が流れ始めたころ、
青年は一人の女性の目の前に立った。

「踊りませんか?」

長身の船員服姿が彼女にとってどれほど眩しくぴかぴか(新しい)映ったことか…。
彼女は、そっと右手を差し出した。

踊りながら彼女の話しを聞けば、
親や親戚に散々世話をしてもらい、ようやく決まった就職のため、
夕方、小郡駅を出発した夜行列車で東京へ向かう予定だったのだと言う。
ところが、親元を遠く離れた事のなかったその人は、
淋しくて、不安で、一時間もしないうちにたまらなくなりもうやだ〜(悲しい顔)
途中で飛び降りたのが「徳山」という駅だった。
しかし帰るに帰れず、このダンスホールでぼんやりと座っていたのだ。

目の前に差し出された手をそっとつかんだ時、
二人は何かを感じたのだろうか。


・・・・と、これが、
私自身の生命の誕生が約束された(?)日でもある。

この夜の父と母の出会いを聞くのが私はとても好きで、
何度も何度も同じ質問をしてきた。

母が弱虫であったこと。

父の船がその日、徳山港に停泊したこと。

そしてこの夜、「ダンスホールの出会い」

これがなければ今の自分も、兄たちも存在していない……。

よくぞ途中下車してくれた!バス手(グー)

私は時々、
なんとも幸せそうな「昭和」が香る
「東京午前三時」を聞きながら、その夜を空想して微笑む。
ニタニタ♪わーい(嬉しい顔)

posted by 悠(ゆう) at 22:53| Comment(15) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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