伝統ある寺院。
夥しく並ぶ近衛兵の赤い制服。
宮殿までのまっすぐな道。
4頭だての馬車。
真っ白いドレス。
緊張した面持ちの王子の横で、
実に堂々と、そして朗らかに
手を振る妃殿下の笑顔がなんと美しい。
何もかもがまるで絵本の中のようで、
心の中に透き通った空気が吹き込んだ気がした。
おめでとうございます。
どうかいつまでもお幸せに。
11日の震災以来、
すっかり打ち拉がれてしまったように、
書くという事が一切何も出来なくなっていた。
「そのまま喋らないでいると、喉の奥の声帯が固まってしまって
本当に声が出なくなってしまうわよ!」
集団に慣れず戸惑う小学校一年生の私に、
担任の先生が何度も繰り返し言った言葉である。
あの時の感覚に少し似ていて、
喋りたいのに書きたいのに、言葉にならなかった。
あまりにも突然、
無情に奪われていった多くの命、家族、人生、思い出。
「偶然なんてない、全てが必然であり、
その人にとって必要な事だったんだ」
と前向きに考えたい時、人はよく言う。
私もそんな考え方を真っ直ぐ受け入れ、信じていた方だと思う。
しかし今は、
こんなに悲惨な状況が、全ての人に必然だったわけがない。
ふざけるな!
運命や宿命って戯言か!
神様っていったいなんなんだ……。
などと繰り返すばかりだ。
そんな「昭和の日」のロイヤルウェディング。
ウェストミンスター寺院をふと思い出して、
15年前の写真をアルバムから剥がしてみた。
だが驚いた事に、何も覚えていない(・・;
それなのに、ケンジントン公園で野生のリスと遊び、
手の平から野鳥に餌をあげていた太目(^^;)のおばちゃまの笑顔を、
はっきりと今でも思い出せる。
私の思い出や幸福感とは、分相応にそんな物なのだと実感した。
だからもう、
高すぎる目標に向かって、遠い夢を追いかけるばかりではなく、
手を伸ばせばすぐに届くようなところにある
ささやかで確かな幸せをひとつずつ記憶し、
いつまでも覚えていよう。今はそんな風に思う。
最後に。
今尚、悲しみの癒えるはずのない被災地の方々に
少しでも穏やかな時間が訪れますように……。
心から「祈り」をこめて。
たぎります。今回のこの理不尽というかなんというか、言葉では
言い表すことができない事は、ほんとに心が折れてます。
幸いにも知り合い達はみんな無事との事。それにしても30000弱の命があっという間に.............。悠さんの言う通り「神様ってなんなんだ!」と叫びたい気持ちです。テレビからは「がんばれ!
がんばれ!」と毎日のように流れ、なんだかね、言うはやすし
行うはかたし、って気がしてならないんだよね。もちろん全てを否定してはいません。
ふんばって彼ら彼女らはこれからを生きていく訳じゃない。
そんなことわかっているよ!と言われそうで、安易には言えない気がしてます。100円義援しようが100億義援しようが
それは身の丈。それでいいと思うし、ほんと自分をしっかりと
生きていくしか今は考えられない状況です。それも慎ましくね!自分に何ができるのかを考えても、なにもできず。
ただこの事は決して忘れずいる事。阪神、新潟、北海道、秋田
とこの国は地震国、火山国。忘れちゃいけなことは、老いぼれた頭に叩き込んでおく。淋しいけれどそれくらいしか、いま
できない自分に折れてますよ。
明るいことは受け止め、哀しみも受け止め、自分のこの身の丈でこなすしか今はできません。
大好きです!東北!
これも、階級制の残っているかの国のありようなのでしょう。
さて、東日本大震災。
TVを見ないので、かろうじて、1週間以上垂れ流しされたあの悲惨な光景を見ずにすみましたが、写真等で見ると、見続けることができないものだということがよくわかりました。
胸が苦しくなってくるのです。
書くことができなくなった悠さん
直接の被災者でもないのに、PTSDになる人たち。
子ども達ですら様子がおかしくなりました。
地震+津波。
なにもかも一瞬のうちに奪って行ったあの状況。
限界集落の多い地方だったということもあるのか、お歳を召された方が多く、しかも、ほとんどが溺死。
どんなに苦しかったことだろうと思います。
しかも、いまだに遺体すら見つからない方もたくさんいらっしゃる。
そこへ来ての原発。
中学2年から高校を卒業するまで、福島県いわき市で過ごした私にとっては、腹立たしい限りです。
いわき市長が地震、津波、原発(放射能)、風評被害があると言っています。
東電に限らず、大都市の電力のもとはすべて地方にある。ビートたけしじゃないけれど、首都圏の電力は、東京湾に原発を作れという意見、もっともだと思ってしまいます。
4月の初め、友人夫婦が車をだしてくれて、いわき市にいくことができました。
誰も住んではいないとはいえ、家がありますので。
高速は茨城県内から補修はされているものの、うねり、それは福島県内に入ったら、ますますひどくなる。
一般道に降りたら、屋根にブルーシートの乗った家が結構目に付きました。
街には人の姿はほとんどなく、お天気が良いのに、洗濯物も干されていずに、カーテンの閉まっている家がほとんど。
一ヶ月近く経っていたのに、ライフラインが復旧していない家が多かったのと、放射能汚染への恐れから、何もなくても避難している人が多かったそうです。
だいたい、施工業者がみな逃げてしまって、もちろん他県から来てくれる業者はないとのこと。
幸か不幸か、私の実家のあるあたりは、高台ですし、地盤が相当固かったようで、庭の石塔が倒れている家があったくらいでした。
その後、新学期が始まるということで、戻られた方も多かったようですが、直下型の余震が続いたので、どうなったのでしょうか。
帰りは海側を通ったのですが、暗くなっていたので、様子はよくわかりませんでした。
ただ、そこに人家があったはずなのに、真っ暗でところどころに、ぼやけたような街灯が点々とついているだけ。
間違いなく人が生活している場では無かったということだと思っています。
暮した事のあるところだけしか分かりませんが、いわき市というのは本当に良くも悪くも何も起きないところだったのです。
気候の穏やかさを含めて、江戸っ子の母が気に入ってそこに家を建てた位のところです。
それが、こんなことになっている。
単に地震、津波という天災だけではないものがあり、それを正し、元に戻すことのできる能力を持った集団(政治・経済・知識を持った)が無いというのは、この国の先が見えたような気がします。
ただ、本当に普通の人たちが、普通の人たちの普通の生活を取り戻すためにがんばっている。
それを思うと、それだけが救いです。
少しずつ、自分でできることを長く続けていきたいと心から思います。
ほんと。。
無力さを思い知らされて、折れちゃうよね。
東北の人独特の言葉の響きが、
なんだか暖かくて優しくて、
大変な状況なはずなのに
「ありがとう」「感謝しています」
って、そんな言葉しか聞こえてこない。
なんて暖かい人たちなんだろうって、
多くの人が痛いほど感じてると思う。
私も大好き!
ぴぃままさん
行ってこられたんですね。
実は(自分の家ではないけれど^^;)
ぴぃさんの空き家の事、
ずっと気になっておりました。
良いところなのでしょうね。
いつかお邪魔したいです。
何人かの知り合いや友人が現地に足を運びましたが、
実際に行って自分の目で見ると、
あまりの惨事に皆声を失うのだと口を揃えて言っておりました。
「普通の生活を取り戻すため」
本当にささやかな願いに向かって頑張っている人たち。
私もぴぃさんのように、
自分で出来る事をひとつでも多く長く続けていきたいと思います。
「天は、乗り越えられない障害は決して与えない」という幻想に対してもそう。
「想定外」が、今年の「流行語大賞」候補等と報じる日本のマスコミに、益々厭世感を感じていたところへ、あるメディアがスポーツを介し、下記の様に報じていたのは、表現力を失った自分の言葉を恰も代弁してくれてるようで、救われた:
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震災の影響で開催地を東京からモスクワに移したフィギアスケートの世界選手権で優勝した安藤美姫選手の言葉、(大会前)「日本の被災地の為に滑る。一人でも多くの人に笑顔になって貰いたい」そして前半戦を、バンクーバー五輪の金メダリストに後れを取りながら、決勝戦では逆転で優勝した後「日本のことを考えて滑った。それが今までとは大きな違い。強い気持ちでリンクに立てた」と語った。
一方、プロ野球の楽天は被災地仙台での初戦を勝利で飾った嶋基宏選手会長が「何のために僕たちは戦うのか、はっきりしました。この一か月で分かったことがあります。それは、誰かのために戦う人間は強い、ということです」。
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獲得賞金を全て義捐金にというゴルフの石川遼含め、行政よりはるかに具体的に表現するスポーツ界に喝采です。
ここで、はて自分は?というスパイラルに陥りそうですが、「手を伸ばせばすぐ届きそうな、ささやで確かな幸せ」を大事にという気持ちを皆が持てるような日本であると信じている次第。
竜馬
津波が押し寄せて来る
過去の被災のフラッシュバック
訳のわからない焦り
そんな日々が続いている
同じ思いの方は沢山おられるでしょう
ただ自分の精神状態をコントロールするので精一杯の無力さ
やっと少しだけ見えて来たことが有る
それは悠さんと同じ
「すぐ手の届くささやかな幸せを 大事にしたい!
些細な事にも感謝の気持ちを忘れず生きて行きたい
それはとってもありがたい事だ」と言うこと
あの選手権が予定通り東京で開催されていれば、
私は最前列で今にも大ちゃんに抱きつかんとする勢いで、
黄色い声を発していたはずでした。
モスクワに代替され、何となく嫌な予感がしていたのですが、
今思えば、ビスが2個飛んでしまった瞬間、
大ちゃんのソチへの道が決まったのかもしれませんね。
でもピアソラ……ちゃんと聞きたかった(;;)
ミキティの被災地への思いが彼女の金メダルに繋がったノネ。
コメントを頂いて、余計素直にそう思えました。
ありがとう。
「誰かのために戦う・生きる」
本当にそれは人を強くさせ、そして何より
それが出来たなら、とても幸せな人生なのだと思います。
「些細な事……それはとってもありがたい事」
そこなんですよね。。
いつも感じますが、
どっぷりと行間に籠めた気持ちをすぅっと拾って下さるようで、
胸の奥がすっきりします^^ありがとうございます。
しかしこの度の事で、
どれほどそれを痛感した人が多い事でしょうね。
昔、向田邦子さんの小説の中で戦後間もない食糧難の時代に、
頂き物の小麦粉ひとつから家族全員が
とても明るくなるシーンがあったのですが、
愛おしく感じながら読んでいたのは、
やはり遠い物語のように読んでしまっていたのだと改めて思いました。
平成の世で、一杯の豚汁や一枚の毛布に涙するのを見るのは、
あまりに切ない思いがしました。